昭和サラリーマン親父の酔どれ日記
昭和生まれで親父で障害者のヒロが、35年余りのサラリーマン生活を振り返るライフログ的ブログ。障害を持ちながら一般就労の社会人として長年勤め上げてきた背中が語る「あの日、あの時」。<br />一献傾けながら、しみじみ噛みしめてまいりましょう。

8月3日

8月3日|昭和サラリーマンオヤジの酔いどれ日記

家族のいちばん長い日

8月3日という日は吾にとって、
いや家族にとっては今まで一番長い日になったと思う。

それは今から3年前の2015年
15時間に及ぶ頸椎の手術をした日である。

その3年前にも頸椎症で
椎弓形成術で手術をしていたが
やはり骨が弱くなって頭の重さに耐えられず再発。

併せて後縦靱帯骨化症という難病も起こしており
ほおってはおけないという事で
頸に棒とボルトを入れることになった。

賛否両論有ったが吾はそれを選んだ。
先生の言う、

「7から8時間かな?
前回より少し長いだけだから心配ない」

との言葉を信じていた。
 
 

うなりを上げるドリル

8月3日、午前8時30分に
吾は手術着に着替え歩いて手術室に向かうと
病院の待合室と間違う位多くの
(10人位いただろうか)
被術者が待っていて
次から次へと手術室へ入っていく。

吾はいつだろうと少々ビクついて待っていたら
最後に呼ばれ、
一番奥の大きな手術室へ連れていかれた。

そこにはドリルのような器具を持った先生がいて
ウィー!!
とテストをされていたが
吾が入って行くのに気がつくと
慌てて何処かへ器具をしまわれた。

あの時の手術室の寒さとドリルの刃先を見て
吾はしまった!と。

その後はまな板の鯉である。
あれよあれよと言う間に
腕に点滴、胸に心電図、口にはマスクをつけられ
……後は覚えていない。
 
 

覚醒の朝

これからは聞くところの話である。

予定の時間が過ぎても出てくる気配がない。
もう既に半数以上の手術者は終えて帰って行った。

弟が待ち疲れた皆を迎えに来てくれたが
終わりそうにないので
取り敢えず弁当を買いに行ってくれた。
が、ノドを通らない。

出てくる看護師に聞いても
もう少しかかりそうですと言う返事だけで
バタバタと出たり入ったりを繰り返していた。

22時半を過ぎて最後の術者が出て来た。
心臓の手術であったらしい。

その日最後の術者になってしまったので
皆に不安がよぎる。
何か有ったのではないかと。
沈黙が続く。
そして23時半過ぎに
やっと扉が開いて
先生方4人位
(吾が入った時は先生と助手1人であった)
が出てこられたが
皆疲労困憊の顔をされていたらしい。
特に、主治医の先生は。

この時、家族が主治医の先生から経過を聞いたが
何を聞いたかは覚えていないらしい。

吾は長時間の麻酔の為、
今晩は覚醒刺さずに集中治療室で一晩過ごし
明日覚醒させるからとの事で
皆疲れ切って帰路についた。

吾の意識は翌朝昼前に戻った。
第一印象は気持ち悪い一言であった。
ベットの前には朝食(パンとバナナと牛乳)がおかれていたが
一口も食べれなかった。

吾の頸には2本のチタン棒と
18個のボルトが埋め込まれ、
頭には世界最強の装具と言われる
ハローベストが装着されていた。

ま、ともあれ命はあったという事だけは
はっきりしていた。
 
 
ハローベストの画像

これがハローベストである

この記事を書いた人

ヒロ
ヒロ
1960年の高度成長期真っただ中に生まれ、障害が有るから人の2倍3倍頑張りなさいと育てられ現在に至る。
アテトーゼ型脳性麻痺2級保持者。
趣味はギターにパソコン(何台作製し分解したかわからない)、とアマチュア無線。
アマチュア無線はインターネット、携帯電話が普及した中で、どれだけ小さな出力でどれだけ遠くに電波を飛ばせるかに情熱を燃やすちょっと変わった人。
真夏に極寒の南極昭和基地と交信できたのは印象的だった。