「障害のある人達のところで演るのがカッコ悪ぐで、ライブハウスで歌うのがカッコいいのか!!」|ヴォーカリスト白崎映美(上々颱風)
こんにちは、みんらぼのゆうさくです。
日々の暮らしや活動の中で障害と寄り添って生きる人々のまなざしや思いをご紹介する「みんらぼインタビュー」。
第三回となる今回は、ヴォーカリスト・女優・作家の『白崎映美』さんです。
映美さんは言わずと知れた人気バンド「上々颱風(シャンシャンタイフーン)」や、東日本大震災を経て、東北にいい事どんと来い!と結成したバンド「白崎映美&東北6県ろ~るショー!!」のヴォーカリスト。
女優や作家、タレントとしても精力的に活動をされています。
今でこそ、観客もスタッフも一体になれるエネルギッシュなステージを見せてくれる彼女ですが、もともとは東北出身の無口な少女だったとか?!
変化のきっかけには、かつて障害者施設でコンサートを行った時の経験があるといいます。
誰もおいていかず、みんなを元気にしてくれる彼女の生きざま。
みんらぼのライター「NEKO」が、目撃した映美さんの魅力を熱く語ります。
東北人コンプレックスを抱え、絶対に入りたくないと感じたバンドに入った無口な田舎少女
インタビュー場所に現れた彼女は、あいさつもそこそこに、開口一番「わたし、化粧道具とか一式入ってるこの大きなバッグ、電車の中に忘れちゃったの。で、確認が取れたから今日遺失物センターに寄って引き取ってきたの。だから、今ノーメイクなんで、写真撮るときはメイクさせてね」
唖然。スゴく大きなバックパックである。どうしたら、そんな大きな荷物忘れるのだろう。彼女曰く、家に帰ってご主人に「あれ、バッグは?」と聞かれるまで、気づかなかったというから、余計ビックリだ。
私にとっては久々のインタビュー取材。しかもお相手は一世風靡した音楽グループ「上々颱風(シャンシャン・タイフーン)」のヴォーカリスト、白崎映美だ。緊張して前日はよく眠れなかった。インタビュー場所に向かう電車の中でも、ずーっと資料に目を通してきた。それなのに彼女は、決して低くないはずの私の“対人用バリア”を軽々と飛び越し、いきなり私のパーソナルスペースにスポンと収まったのである。
恐るべし、白崎映美。会った瞬間にココロを鷲づかみされてしまった。
事前に考えていた綿密な計画では、インタビューを始める前に、「今日は親しみを込めて白崎さんではなく、映美さんと呼んでもいいですか?」などと切り出そうとしていたのだが、全てオジャン! 前置きもなく自然と「映美さん」って呼んでいた。失礼千万。インタビュアーとしては失格である。
しかし映美さんは、そんな私の動揺などと関係なく、旧知の仲間に見せるような優しい表情で、私の問いかけに応じてくれたのである。さすが、白崎映美。こうして映美さんに主導権を握られたまま、インタビューはスタートした。
白崎映美。山形県酒田市出身。実は私、つい最近まで映美さんは沖縄の人だと思っていた。なぜなら、私が映美さんを初めて見たのは28年前の“JAL沖縄キャンペーン”のCM。青い海をバックにエキゾチックな衣装を身にまとって踊る超美人の女性、それが映美さんだったのだ。上々颱風の「愛より青い海」というCMソングとも相まって、まだ今ほど沖縄が身近じゃなかった時代、異国情緒を感じさせるCMだった。私は当時映美さんを上々颱風のボーカルだとは知らず、完全に沖縄出身のモデルさんだと思い込み、「あー、沖縄にはこんなキレイな女の人がいるんだ」と、勝手に南国の美女モデル像を作り上げていた。
ところが、ところがである。なんと映美さんはバリバリの東北人。しかも上京して30年以上経った今も、超バリバリの“酒田弁ネイティブスピーカー”なのだ。30年近く完全に騙されていた(というか、勝手に思い込んでいただけだが……)。
それはともかく、この“東北出身”という出自が、映美さんにとって、過去はコンプレックスとなり、今はプライドとなっている。そして、このコンプレックスでありプライドが、今回のインタビューの“キモ”となるのである。
今でこそ、見るからにエネルギッシュで活力に満ち溢れた映美さんだが、実は上京後上々颱風にメンバーとして加入するまでは、“東北出身”というコンプレックスを抱えたシャイで無口な少女だったというからビックリだ。と言っても、酒田時代の映美さんはイタズラ好きで歌うことが大好きな、ごくごく普通の少女だったという。では何故コンプレックスを抱えるようになってしまったのだろう。
ここに一冊の本がある。『鬼うたひ』(亜紀書房、2016年刊)。映美さんが書いたエッセイ集だ。その中にこんな一節がある。
「実際、高校を卒業して東京さ出できたばっかしのオラは、もじもじ、内向的なヤヅになてました。はちきれんばかりの東北人コンプレックスを全身に閉じ込めで、とっても無口な田舎少女になってしまっていだのです」(筆者註:引用は原文ママ。実際に全編酒田弁で書かれています。以下同)
そんな内向的な東北人コンプレックスを抱えた映美さんを変えたのが、上々颱風への加入だった(正確には前身である「紅龍&ひまわりシスターズ」時代に加入。後にバンドは上々颱風に改名する)。40代以上の方なら記憶にあるかも知れないが、上々颱風は奇抜な衣装に身を包み、民族音楽的な楽曲を奏でる、どちらかというと当時の音楽シーンでは異色のバンドだったと、個人的には思っている。
映美さんも、何の予備知識もなくオーディションを受けた後に上々颱風の演奏を初めて観たときは、
「このバンド、ダッサいって。絶対入りたくないって思ってた。東京に憧れて田舎から出てきて、カッコいいバンドでカッコつけてライブを演りたかったのに、観たら田舎くさい。だから、どうやって断ろうかということばかり考えてたんです」
ところが、その時まだ内向的だった映美さんは断りきれず、紅龍&ひまわりシスターズにヴォーカルとして加わることに。そしてそれが、映美さんの人生を変えるターニングポイントとなったのだ。
「仲間はずれのない音楽をやろう」…初めての障害者施設でのライブでの衝撃
映美さんは『鬼うたひ』の中で、上々颱風のことを大学のような存在だったと書いている。高校卒業して上京後、デザインの専門学校に通い、2年半デザイン会社で働いたものの、緻密な作業が苦手(そもそも向いてなかった?)で辞めてしまった映美さんにとって、世の中は広いんだ、いろんな価値観、考え方があるんだ、ということを教えてくれたのが上々颱風での活動だったという。
とにかく上々颱風は変わっていて、普通なら活動の場はライブハウスやホールなどのステージとなりそうなものだが、映美さん曰く「多種多様なおもしろい場所」ばかりだったそうだ。例えば魚市場、闘牛場、芝居小屋、東大駒場寮の風呂場、能舞台、村祭り、結婚式、政治集会などなど、演ってないのは葬式ぐらいだったという。当然観客も老若男女、上々颱風を知ってる人もいれば、全く知らない人もいる。そんな環境の中でパフォーマンスを続けることで、上々颱風というバンドは評価されてきたのである。そこには、リーダーである紅龍さんの「仲間はずれのない音楽をやろう」という理念が息づいていた。だから映美さんも、偏見や先入観を持たずに、純粋に音楽を一緒に楽しむことで得られる喜びを感じられたのだろう。
そうした活動の場のひとつに障害者施設があった。まだバンドに加入して間もないころ、初めて障害者の前で演ることになったときの衝撃は、今でも忘れられないと映美さんはいう。
「障害のある人たちが自分たちで企画して上々颱風を呼んでくれたんです。施設の食堂みたいなフラットなところで、目の前には車椅子に乗った人がたくさんいて、職員やボランティアの人と一緒に楽しそうに観てくれていました」
「ところが、突然数メートル先の正面で観ていた男性が、車椅子からバーンって体ごと落ちたと思ったら、這いずりながら私の方ににじり寄って目の前まで来たわけです。『こりゃ大変だ』と私は内心ハラハラしてたんですが、職員の方もボランティアの方も、みんな普通にしてるし……」
「後で聞いたら、みんなが『イエーイ』って楽しむのと同じように、その人も楽しくなってあなたの所に行きたくなっちゃたのよ、って言われて、『ああ、そうか』って。やっぱり接することがないと分からないことがあるんだなって思いました」
さらに衝撃はそれだけでは済まなかったようだ。
「その日の打ち上げのときも、ライブを企画してくれた障害のある二人が、お酒を飲んでいるうちに『コノヤロー』って取っ組み合いのケンカを始めちゃうわけ。車椅子ぶつけ合って。そりゃ、ビックリしました。ビックリしたけど『でもみんな同じだし、これも当たり前のことなんだな』って思って。そういう意味では目からウロコ落ちまくりの一日でしたね」
「区別とか差別とか、よく分からないけど、そんな頭で考えてることを遥かに想像もつかないレベルでポーンと超えてきちゃったから、なんか逆にスゴく楽しくなっちゃって」
私も映美さんと同じように、障害のある人が身近にいた経験がない。だから、そんな場面に遭遇したら正直引いてしまいそうだし、ちょっと怖いと感じてしまうかも知れない。それなのに映美さんは、最初からすんなり受け入れることができたのだろうか。
「何回もそういう場所でライブしてるからかな。障害のある子どもたちのところに行くと、あれっ? ここにもう一人ヴォーカル増えてる、みたいに私の隣にずっと立ってる子や、演奏している間中、ずっとクルクル側転している子とか、みんな自由過ぎて嬉しくなっちゃって。逆に羨ましかったんでしょうね。やっぱり大人になっちゃうと、楽しくても心から“ワー”ってできない自分を考えると、『わー、羨ましいな』って思って」
映美さんは過去のインタビューでこうも語っている。
「音楽の楽しみ方が自由そのものなんですよね。私たちが忘れてしまっていることを逆に教えてもらったし、「羨ましいな、この人たち」って。心と体がくっついてるなって思ったんです」(2017 CINRA.NET)
映美さんは、施設での経験を『鬼うたひ』の中で次のようにも書いている。
「これまで障害を持つ人たちと接する機会がなかったせいで、オラの中には目に見えないバリアがあったんだ。障害のある人達のところで演るのがカッコ悪ぐで、ライブハウスで歌うのがカッコいいのか、白崎映美!」
映美さんの心の叫び。『鬼うたひ』を読んで、私の心の中にも響いた一文だった。わが身を振り返ったとき、果たして映美さんのように障害者との間のバリアを壊すことができるのか、と。正直まだ結論は出ていない。
「怖いどころか嬉しくなっちゃって。自由すぎるぐらい自由!(笑)」…生きづらさを抱えた西成のおっちゃんたちとの出会いと絆
さて、映美さんにとって施設で行ったライブと同じくらい分岐点となった活動の場がもう一つある。それは西成でのライブである。
大阪・西成“あいりん地区”といえば、関西地方の方ならご存知だと思うが、日雇い労働者が集まる、いわゆる“ドヤ街”で、地元の人でも近寄りがたいイメージのある街といえよう。その街の中心にある通称“三角公園”で、上々颱風は1990年ライブを行っている。当時のあいりん地区は、暴動の起きた直後だったこともあり、街も人も落ち着いてるとは決して言えない状態だったのだ。
「最初の印象は『ええっ、日本にこんなところがあるの』ってビビってたんですよ。道一本外れると『あれっ、なんか雰囲気が変』みたいな。殺伐としていて、真っ黒焦げのクルマが横倒しになっていたり、最寄りの駅も真っ黒焦げで。今まで感じたことのないヤバい匂いが充満していました」
ライブ会場となった公園には大きな焚き火が焚かれ、2000人を超えるおっちゃんたちに埋め尽くされてる状況を見て、映美さんは寒さと怖さでブルブル震えていたそうだ。しかし、いざライブが始まると、これまでに感じたことのない、人の暖かくて優しい空気の波みたいなものが押し寄せてきたという。
「ヤジとかバンバン飛んでくるの。『おい、ねーちゃん早よ脱げ!』とか言いたい放題(笑)。でも不思議と怖いどころか嬉しくなっちゃって。自由すぎるぐらい自由!(笑)」
「明るぐで自由な人間の喜びみたいなものが、大量のおっちゃんたちからぶわーっと伝わってきて、オラ達は酔ったみたいにうれしくなって歌いました。(中略)あったかくてなんだか夢みたいなライブ。忘れられない夜になりました」
と、『鬼うたひ』の中でも映美さんは、そのときのことを書いている。そして、これをきっかけに、なんと映美さんは、一人で西成へ通うようになるのだ。尋常な感覚では考えられない所業。20代のうら若き女性が一人で出かける街ではないことは、誰の目にも明らかである。
「上々颱風でライブを演ったにも関わらず、バンドのメンバーからも『一人で行っちゃダメだよ』とか言われたりして。でも怖いとか危ないとか思ってたら行かれないし、思ってなかったんでしょうね」
「その頃ちょうど精神的にきつい時期だったんですけど、西成に行くと不思議と楽になって。おっちゃんが『ねーちゃん、どしたんや』とか声かけてくれて、『ここで寝とき』ってダンボールで寝かせてくれたりとか、とにかく楽に過ごせたんですね、あそこに居ると」
「なんか言葉で説明しようとすると難しいんだけれども、とにかく居心地が良かった。とにかくそこにいる人たちが、みんな優しくしてくれるんです。ポン吉っていうおっちゃんがいて、『ワシの娘や』って可愛がってくれたり」
聞いてるだけでハラハラしちゃうエピソード満載である。西成に通いつめ、おっちゃんたちと昼間から酒を酌み交わし、カラオケを歌い、友だちになってしまうなんて、世の大多数の人にとっては想像もつかない話であろう。しかも20代の女性がである。一般的にはちょっと壁を作ってしまいがちな人たちにでも、映美さんはどうしてすーっと入り込んでいけるのか不思議でならない。
「西成のおっちゃんとかは、現代社会においてはやっぱり生きにくい人たちなんだと思います。今の世の中からはみ出しちゃってね。理由は怠けもんだったり、社会につまづいたり、色々あるんだけど、みんな優しいんですよ。世の中『なんか冷たいよね』って思える人の方が合理的に生きてるし、お金も儲けられるんだろうけど、西成のおっちゃんたちの方が、人間として上等な感じがすごくすると、私は思うんです。逆にこっちの方が間違って生きてるんじゃないかって思えるくらい」
色々な事情で西成にたどり着いてきたおっちゃんたちだからこそ、人の優しさが人一倍分かるし、人にも純粋に優しくできるのかも知れない。カッコつけず、見栄も張らず、不器用さを隠さず生きているおっちゃんたちに対して、人の言葉を鵜呑みにせず、先入観を持たずに接したからこそ、おっちゃんたちもまた、映美さんを自然に受け入れたのではないだろうか。もちろんこれも、経験のない私には結論の出せない未知の世界だが……。ちなみに映美さんの話に出てきたポン吉というおっちゃんとの間には、色々なエピソードがあるのだが、ここでは触れない。興味のある方は、ぜひ『鬼うたひ』を読んでください。笑えるし、泣けます!
このように、上々颱風のメンバーとして様々な場で濃厚な経験を積み重ねてきた映美さんだが、上々颱風での活動は、当初決して理想的なものではなかったという。カッコいい場所でカッコいい音楽を演る、という映美さんの抱いていた理想とは大きくかけ離れた現実の毎日。しかし、知らず知らずのうちに、上々颱風のカラーにどっぷり染まっていたのだという。
「入って10年間は嫌々やってたんですけど、10年経ったらリーダーからも“上々颱風原理主義者”って呼ばれるほど極端になっちゃって(笑)。音楽もファッションもずっと欧米を向いていて、自分が生まれ育った国のものをないがしろにして来ちゃった感じがするんです。上々颱風にいるうちに『それって、やっぱりもったいないじゃん』って思うようになっちゃって、自分たちの音楽をやろうとしている上々颱風こそがカッコいいじゃん、と思うようになってきたんです。最初は『うわ、ダセー』って思ってたのに(笑)」
「田舎にいるとどうしても中央を向いちゃう感じとか、東京はキラキラしてカッコよくて、田舎者の自分たちはカッコ悪いって思わされてたんだとか、本当にカッコいいことって、実はこういうことなんだとか、10年かかって気づかされました。もし上々颱風に出会わなかったら、今でも『田舎はカッコ悪くてダサいんです』って思いながら生きてたかも知れないですね」
“東北人”コンプレックスから内向的で無口だった少女は、こうして“東北人”としてのプライドを持ち始めたのである。そしてそのプライドが、その後の映美さんの原動力になっていくのである。
東北6県ろ~るショー!!結成
上々颱風で活動するうちに東北人の誇りに目覚め、順調に音楽活動を続けていた映美さんだったが、それを揺るがす大きな出来事が起こってしまう。
2011年3月11日、東日本大震災発生。それは何の前触れもなく日本中を悲しみのどん底に陥れた出来事だった。もちろん、東北出身の映美さんが大きな衝撃を受けたのは言うまでもない。『鬼うたひ』の中で映美さんはそのときのことを、「自分がどのように日々を送っていたか、あまり覚えてません。人間、あんまりショックが強いと記憶が飛んでしまうのでしょうか」と記している。
多くのミュージシャンが当時苦悩していたように、上々颱風のメンバーも、この状況とどう向き合えばいいのか逡巡していたという。それでも声をかけられれば被災地に向かい、少しでも元気に、少しでも笑顔になってもらえるようにと、精一杯歌い、踊り続けた。そして映美さんもまた、多くの被災者の方から勇気を得たのである。
その一方で映美さんは、遅々として進まぬ被災地の状況に、ずっともやもやした気持ちを抱えながらも、何をすべきか答えを見つけられずに過ごしていたという。
そんな折も折、一遍の小説に出会う。『イサの氾濫』(未来社、2016年刊。初出は文芸誌『すばる』2011年12月号)。文芸誌に掲載された青森県八戸出身の作家、木村友祐氏の作品だ。映美さんはこの小説を朝日新聞の書評で見つけるやいなや、図書館にかけつけ掲載された文芸誌をむさぼるように読んだ。すると、これまでもやもやしていた気持ちに納得がついただけでなく、むしろ東北の血が逆流するような気持ちになったという。
作者の木村さんは『イサの氾濫』の中で、東北人は無言の民。古くから戦いに負け続けてきた歴史の中でそれを受け入れ、黙々と暮らしてきた。震災と原発でこれでもかと痛めつけられても、黙って耐え忍ぶことを選んでしまう。でも、もういい加減重い口を開いて叫んでもいいんじゃないか、と書いている。当然だ。「地震が東北で良かった」などと平気で口にしてしまうバカな政治家や、復興をオリンピック誘致のネタにしてしまう厚顔無恥な輩を目にするにつけ、東北に縁のない私ですら「バカにするのもいい加減にしろ!」と言いたくなる。
とにかく、『イサの氾濫』と出会った後の映美さんの行動は、素早く、そしてエネルギーに満ち溢れていた。まるで取り憑かれたかのように、「これだっ!」と思ったミュージシャンに片っ端から声をかけ、「東北の父ちゃん母ちゃんさいい事来い!福島のじっちゃんばっちゃんさいい事どんと来い!」とバンドを結成するのである。
実は映美さん、中学3年のときに“酒田大火”(1976年10月29日に酒田市中心部で発生した大火災)で実家が全焼してしまっている。そのとき全国から救援物資をもらったり、仮設住宅を建ててもらったり、いろいろ助けてもらった経験があり、その恩返しがしたいという思いも、このバンド結成につながっているのだ。
結成されたバンドは『東北6県ろ~るショー!!』。映美さんは『鬼うたひ』の中でこのバンドについて、次のように語っている。
「東北さ、いっぺ神様とか妖怪とか棲んでんだから、東北全部で力を出して、『東北さいい事来い来い、どんと来~い!』ど叫ぶぞ、と。(中略)福島つう倒れだ兄弟をみんなで助けで、力を合わせていがねば、ど。『オラ方は世界の東北だぞ!』つう壮大な妄想に取り憑がれでしまった」
バンド結成に合わせて映美さんは、『イサの氾濫』からインスピレーションを受けた『まづろわぬ民』という楽曲を作る。“まつろわぬ民”とは、順わぬ民、服わぬ民と書き、大和朝廷から“蝦夷(えみし)”と呼ばれ、朝廷に従うことをよしとせずに抗った、かつての東北の祖先の人たちのことを指す。寡黙な東北の人たちに送る映美さんからのエールだと、私は思っている。ここに一部歌詞を抜粋して掲載させていただく。
まづろわぬ民(作詞・作曲 白崎映美)
山漕ぎ野漕いで 自由に生ぎる
オラ方(がた)の先祖は まづろわぬ民だ
そごを越えでゆげ 越えで越えで越えで
苦難を越えでゆげ 越えで越えで越えで
野漕げ山漕げ 漕いで漕いで漕いで
そごを越えでゆげ 越えで越えで越えでゆげ
▼YouTube動画
そんな壮大な妄想が壮大な現実となっていく。『東北6県ろ~るショー!!』は東北の被災地だけでなく、東京、大阪、名古屋、沖縄と活動の場を広げ、多くの人に東北人の叫びを伝えている。さらに、『風煉ダンス』という演劇集団と出会ったことで、『まづろわぬ民』から想を得た『まつろわぬ民』という音楽劇が生まれたのである。そして映美さんは、主演女優として舞台に立ち、多くの人にその思いを届けたのだ。
上々颱風は残念ながら現在活動休止中だが、映美さんは『東北6県ろ~るショー!!』を始め、いくつものユニットでエネルギッシュに音楽活動を続けている。訛りが嫌で無口で内向的だった少女は、本当のカッコよさを身につけ、故郷に誇りを持ち、きっと今日もどこかの酒場で酒田弁でクダを巻いているのだろう。
インタビューを終えたとき、外はすっかり暗くなっていた。街には冷たい風が吹いていたが(実はこのインタビュー、まだ寒い時期に行われたものだったのですが、私の事情で原稿にするまで半年近くかかってしまいました。映美さんゴメンナサイ!)、なぜか私の体は熱く火照っていた。映美さんの本を読んで、『イサの氾濫』を読んで、ライブを観て、そして話をしているうちに、自分の中で何かが動き出した気がした。還暦を目前にして、新しく何かをやろうというよりも、残りの時間を意識するようになっていた自分が、「まだ何かできるかも」と、ちょっとだけ思えた一日だった。
ところで、なぜ映美さんが、いとも自然に人の心に入り込んでくるのかという疑問は、結局最後まで分からなかった。ただ、『鬼うたひ』の中で「白崎映美とは何か?」という質問に映美さんの周囲の人が答える章があるのだが、その中の障害者支援施設を運営するNPO法人CESの事務局長、土居幸仁氏の言葉が、私には一番腑に落ちたので、そちらを一部抜粋して引用させていただく。
「私は、仕事柄、障害のある人たちと一緒に居ることが多いのだけれど、世間は、ちょっと人とちがう声を上げたり、ちょっとちがう動きをしたりすると、とても怪訝な顔になる。だけど、上々颱風のライブで大きな声を上げたり踊ったりする私たちに、エミちゃんは面白そうに声をかけてくれた。ステージにまで上げてくれた。そして、みんなは上々颱風の虜になった。それは、音楽はもちろんのこと、エミちゃんが私たちを受け入れてくれたからだと思う。人は誰でも自分の周りに壁を持つ。しかしエミちゃんの壁は、穴だらけで底なしの『ざる』のようだ。壁にぶつかってばかりの私たちは、エミちゃんの『ざる』を通り抜けることで元気や勇気をもらった(後略)」
いずれにしても、映美さんと過ごした数時間は私にとって貴重な経験となったことは間違いない。残念ながら今回は、時間の都合もあり一緒に盃を酌み交わすことはできなかったが、一度ゆっくり飲みながら、“ハゲ”好き(笑)の映美さんに、私の寂しくなった頭を“ペシペシ”と叩いてもらいたいと思った。ココロから……。
白崎映美
▶公式サイト
1962年、山形県酒田市生まれ。歌手。酒田中央高校時代にバンド活動をはじめ、上京後、のちに「上々颱風」となる「紅龍&ひまわりシスターズ」に参加。90年、上々颱風のメジャーデビュー後、91年にはJAL沖縄CMに出演、テーマ曲「愛より青い海」が話題を呼ぶ。スタジオジブリ作品『平成狸合戦ぽんぽこ』では主題歌「いつでも誰かが」を担当するなど、“無国籍バンド”、“ちゃんちきバンド”などの異名を取る個性派バンドのツインヴォーカルのひとりとして活躍。日本全国津々浦々で様々な形態のライブを敢行するにとどまらず、アジア諸国やパリ、ドイツにも渡り、独自のパフォーマンスを展開。また、シンディ・ローパーのアルバム「Sisters of Avalon」のレコーディングにも参加。武道館で共演を果たした。
東日本大震災の後、東北人の煩悶と憤懣を描いた木村友祐の小説「イサの氾濫」に触発され、2013年に上々颱風が無期限活動休止となったのち、ソロ活動と並行して「白崎映美&とうほぐまづりオールスターズ」を結成。14年、アルバム『まづろわぬ民』を発表。翌年「白崎映美&東北6県ろ~るショー!!」とバンド名を新たにし、東北各地はもちろん、東京、大阪、名古屋、沖縄と活動の幅を広げる。16年、ライブDVD「実録!! 夏のぜんぶのせフェスティバル=渋谷2015=」をリリース。酒田で長年命脈をつないできたグランドキャバレーへのオマージュから結成した「白崎映美&白ばらボーイズ」、ブルースシンガーAZUMIと組んだ流しのコンビ「義理と人情」などでも、際立った世界観を打ち出している。
2019年秋には「東北6県ろ〜るショー‼︎」セカンドアルバム、「白崎映美&白ばらボーイズ」デビューシングル、ダブル発売予定。
書籍紹介「鬼うたひ」
90年代を風靡した異能バンド「上々颱風」。そのフロントを務めたヴォーカル白崎映美が、酒田大火を経験した山形での少女時代から、上京後東京暮らしと音楽活動、そして、愛してやまない大阪・釜ヶ崎の町まで、まるごと書き下ろした熱き半生の軌跡―撮り下ろし写真多数収録、完全保存版!!
CD紹介「まづろわぬ民」
白崎映美&とうほぐまづりオールスターズ
発売:galabox disx
白崎映美が“東北6県ろ~る”を合言葉に結成したバンド、とうほぐまづりオールスターズの1stアルバム。東北人の熱い想いをたぎらせた全10曲。
書籍紹介「イサの氾濫」
40代になりいよいよ東京での生活に行き詰まりを感じていた将司は、近ごろ頻繁に夢に出てくるようになった叔父の勇雄(イサ)について調べるため、地元八戸にむかった。どこにも居場所のなかった「荒くれ者」イサの孤独と悔しさに自身を重ね、さらに震災後の東北の悔しさをも身に乗り移らせた彼は、ついにイサとなって怒りを爆発させるのだった。──上々颱風の人気ヴォーカリスト、白崎映美を震撼させ、新たなバンド「東北6県ろ~るショー!!」をつくるきっかけとなった幻の作品。
【著者】木村友祐(きむら・ゆうすけ)
1970年生まれ、青森県八戸市出身。著書に『海猫ツリーハウス』(集英社、2010年〔第33回すばる文学賞受賞作〕)、『聖地Cs』(新潮社、2014年〔第36回野間文芸新人賞候補作〕)がある。本書収録「イサの氾濫」は第25回三島由紀夫賞候補作(2012年)。2013年、フェスティバル/トーキョー13で初演された演劇プロジェクト「東京ヘテロトピア」(Port Bの高山明氏構成・演出)に参加、東京のアジア系住民の物語を執筆(現在もアプリとなって継続中)。管啓次郎氏の呼びかけで2014年よりはじまった「鉄犬ヘテロトピア文学賞」の選考委員もつとめる。
スペース紹介「修平庵」
懐かしい本と雑貨・修平庵
「昭和ド真ん中世代の想い出雑貨店」をキャッチフレーズに、2007年NET SHOPでオープンした昭和の古本と古雑貨を販売するお店。2016年からは、庵主(OUPメンバー・吉野修平)自邸の庭に建てた小屋で完全予約制実店舗としても営業中。
NET SHOPのHPは こちら。
実店舗営業のお知らせ・ご予約は facebookのショップページまで
この記事を書いた人
- 1960年生まれ。千葉県出身。健常者。50歳を過ぎて会社を退職。フリーでイベントの企画やライター、映像制作などの仕事を細々と続ける。所長のずずこ氏と高校の同級生ということもあり、縁あって「みんらぼ」企画時から関わらせてもらっているが、ほとんど貢献していない幽霊部員のような存在に。趣味は音楽。こちらも50歳過ぎてから再開したバンド活動にハマり、ライブが近くなると支障が出ないように仕事をセーブするのが常(笑)。担当楽器はベース。悩みはジム通いしても落ちない体脂肪と、留まることを知らない頭髪の減少(汗)。ま、それも個性ということか。